楽に生きる。

我が人生、気づき多し。

当事者ではない人としてのLGBTの話 パート2

 

そういえばあの記事の続きは次のでとか言っちゃったな~

結論はちゃんとあるよ~ここに

書かなきゃな~

..........はっ、、そういえばあの記事の続き....

 

 

 

 

と思い続けながら気がつけば1年半ほど経っておりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

「なぜ性別などのくくりを超えた恋愛の形に、(今のところ)LGBTではない私は心からの喜びを感じるのか?」

 

という話でした。

 

当事者目線ではなく、あくまでも外側からみた意見で考えてみようと。

 

 

 

 

そしてその結論はというと、

 

 

LGBTQだと公表しその恋愛観を貫いている方たちは、本当の意味での自己愛を持っているから。

(そしてその自己愛の上に発生する恋愛は自然と愛が溢れるものになる)

 

 

 

ということに辿り着きました。

 

 

 

 

 

 

今でこそ異性愛などは公表、または受け入れられやすい世の中になりましたが、それでも自分との葛藤や周りからの批判など、様々な思いを抱えてきたことがあるのだろうと思います。

 

周りの人にバレないように自分を必死に隠したり、自分がおかしいのかと思ったり...

 

そういうことを少なからず経験してきたことがあるのかな、と思います。

(もちろん、そんな思いはちょっとも感じずにはじめからそんな自分を自分として理解し受け入れてきた方もいると思いますが☺︎)

 

 

 

 

 

そしてそれはものすごく勇気のあることだろうと思います。

少なくともいわゆる今までの恋愛観とは違うわけです。

 

新しいものというのはどれだけ良くても、はじめは受け入れられず難しい状況に立たされることがあります。

 

 

 

そんなものを乗り越えてきた、自分を理解する心、それを自分としてそのまま受け入れるということ、

それらはほんとう〜〜〜に強く、そしてなによりも 本物 であると思います。

 

インスタに載せたいがためにカップルで行くイルミネーションとか、今1番アツい注目インスタ映えレストランとか、、、

 

そういう見かけのものよりもはるかに強くて、真実で、答えで、本物の愛の形、なのです。

 

 

 

 

 

そしてそれはやはり、自己愛

がなければ成り立たないのでしょう。

 

常識を打ち破ってまで、私はこうだ!!!と思える強さは素晴らしいです。本当に素敵です。

 

 

 

ありのままの自分自身を理解し、受け入れる。

 

これに尽きると思います。

 

 

 

 

 

SNSが発展して他社の生活が近くなり、自分のものと比べたり、落ち込んだり、そういうのがしやすい世の中だからこそ、

多くの人が「本来の自分の美しさ、素晴らしさ」に目を向けることを忘れてしまっている。

 

 

私たちはLGBTの人たちから、こういう人生において本当に大切なものを学べるのかもしれません☺︎

 

 

 

 

 

 

学校っていらなくね?

 

なんとなーく、1年半ぶりくらいにこのブログを開いたらまた色々書きたくなって。

私このときからもさらにいい方向へ変わったな、そういえばこんなことで悩んでたな、意外と文章うまいなあたしへへへへへ、とかいろんなこと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

ブログ再開させようかしら、の第一弾は学校のお話。

 

 

学校って誰しもが疑問も持たずにとにかく行くものだと思って行ってますよね。(金銭的に理由があって行けない/行けなかった方などが読んでいましたら、すみません)

 

国語数学理科社会とか主にそんなこと学びましたが、それも特に当たり障りのないことですね。だってほとんどの人たちがそうやって生きてきていますから。

 

 

 

 

私は高校時代に、大学受験のため通っていた塾が大大大大だいだいダイダイダイ大だいだ〜〜い好き!!♡♡♡だったのですが、その塾の中でも特に尊敬していた先生がこんなことを言ったことがありました。

 

 

 

 

「俺は片付けがほんとに苦手なんだよ。まじでできない。ほんとに家政婦雇いたい。

 

もし整理整頓が受験科目だったら確実に俺はどこの大学にも受かってないし最低ランクの人間だったと思う

 

 

 

 

そのときはみんなあはは~なにそれ~って言って聞いていました。私も然り。

 

しかしそれをなんとなくあとから考えてみたのですが、

 

そういう世界もあったかもしれないのです。

 

 

 

 

 

どういう世界かというと、受験科目の中に整理整頓という科目が必修である世の中、です。

 

 

 

たまたまこの世界では、国語数学理科社会....が勉強科目として、受験必修科目として存在していますが、それも(いわゆる一般の)学校が、その科目を軸に勉強を展開しているから、に過ぎないのです。

 

そう考えると私は整理整頓と国語数学理科..........がなんとなく同じ立ち位置にいるというか、別にどちらでもいいというか、そういう風に思えてきます。

しかもどちらかというと整理整頓のほうが、日常生活を送る上では役立ちますよね。

 

 

 

 

 

 

何十年後か、はたまた何百年後か、それは分かりませんが、

子どもが成長して一定の年齢にいったら義務教育である小学校に入る、というお決まりの「型」はいつかは絶対になくなると思っています。(なくなるまでいかなくても、それを選ばない人のためにも、新たな選択肢がある、くらいのレベルまではいくと思います)

 

なぜなら国語数.................はあくまでも、

 

 

今の社会で重要だと、国家が決めたひとつの指針

 

に過ぎないと思うからです。

 

 

 

 

ゲームのプログラミングやロボットの作成など、いまの子どもたちは、私たちが子どものころには想像もつかなかった色々な新しいことをやりはじめています。時代が変わっているんだから当然です。

 

 

変わっているのが当然なのに、教育の形が変わらないのはおかしいと、なぜ多くの人は思えないのでしょうか??

 

 

もちろん役に立つこともあるけれど、大体は忘れる学生時代の勉強内容。

 

だったら自分が学びたいことを学ぶほうがハッピーだしよっぽど生産的なんじゃない??

 

 

 

 

 

学校、教育、というテーマでこれからも色々な記事を書いていきたいと思っています。

 

 

 

当事者ではない人としてのLGBTの話

 

 

私には本当に大好きな女の友達がいます。

 

なんとなく親友という言葉を使うのが自分的に嫌で、どんなに一緒にいた友達に親友、と言われてもその度に違和感を抱えてきた私ですが、

 

この人は間違いなく親友に値する、私にとって特別な人だ

そう言いたくなるくらいの人です。

 

深いときはとことん深く、浅いときはとことん浅い会話をするえ。

(主にというか138%私が原因で)1回離れたこともあるのですが、それを経て今、唯一無二の存在です。

 

 

 

 

 

そんなその子とディズニーに行ったときです。

 

夜ご飯を食べてたら、急にその子が別にためらいもないような様子で切り出しました。

 

 

 

 

「いい感じの人がいるけど、それは女の人なんだよね」

 

 

 

 

 

 

これよく聞くやつや。仲のいい友達から自分は同性愛者(またはバイセクシュアル、etc..)だとカミングアウトされること。

 

 

私にはお姉ちゃんがいます。

これの何ヶ月か前、姉は、姉の1番の友達(だと思うんだけど)に、

「自分は同性が好きで、付き合ってる女の人がいる」

と言われた、と言っていました。

 

1クラスあればそこに1人か2人の割合でLGBTの人がいる、と言われるようになった今。

ついにそういう話が身近になったな、と感じました。

 

姉から話を聞いたとき私が何を感じたかというと、

 

 

嬉しかったんです。なぜか。

 

そのときなぜそう思うかはわからなかったし、私は異性愛者だと思っていたが、実は自分も同性愛者だった、だからそれに気づいて身近に感じて嬉しかった、ということとも違う気がする。

純粋にその人たちの愛のかたちを尊敬する気持ち。

とにかくすごく嬉しかった。

 

元々セクシュアル・マイノリティの話には抵抗感がなかったこともあり、友達に彼氏ができた、と話を聞くよりも祝福の気持ちでいっぱいでした。

 

そして姉から話を聞いてから、

「もし自分の友達からそういう内容をカミングアウトされたら、自分はどう思うんだろう....」

と考えるようになりました。

 

想像では、姉の友達のときと同じ。嬉しい。

けど実際はどうなんだろう。やっぱり衝撃なのかな。祝福できないのかな。

 

 

 

 

 

 

そしたら、ついにやってきたんですね。その時が。

 

 

さあ、私どう思う!?どんな気持ちが生まれる!?なんて言葉を返すんだ自分!!!!

 

 

 

 

 

 

その結果は、

 

 

 

嬉しい

 

 

 

 

 

 

 

姉の友達の話を聞いたときと、想像と、変わらなかったんです。

 

なんて言葉をかけたのかは正直覚えてないのですが、とにかく嬉しい、という気持ちでまたいっぱいだった。

 

素直に、友達の恋を応援したい。

友達が決めたことなら最大限に尊重する。

そういう愛のかたちって素晴らしい。

 

と思いました。

 

 

 

私の大切な友達は、今はそのいい感じだった人と付き合っていて(♡)、よくその人含めた3人で会ったりしてますもしかしなくてもお邪魔だよねこれ

その人はすっっごくかっこいいのに可愛いし素敵で、人として私もすごく好きです

 

 

 

 

 

 

 

こういう話を聞いて感じる嬉しさ

 

これが一体なにものなのか?

自分にベクトルが向いている喜びとは違くて、その人たちの愛のかたちに対する純粋な喜び。

なぜここまでの気持ちを感じるんだろう...?

 

ずっと疑問でした。

 

 

 

それに対する答えがやっと見えてきた気がするので、それも書きたいのですが、ぜんぶこの投稿に収めるとすんんごく長くなるので、

 

また次で☆

 

 

 

 

某メガネ屋にて。

 

この前夏ぶりに自分のための買い物(洋服とか化粧品とか)をしました。

元々買い物が大好きだったんですが、別のところへお金が回ってたのでその余裕がなくてできてなかったため、ほんとに楽しみるんるん!って感じで出かけました。

 

特に買うものは決めずに、デパートの中のいろんなお店に出たり入ったりぶらぶらしていると見つけたのはメガネ屋。

 

 

あたしはほんとに目が悪くて、コンタクトなしだと視力検査の1番上すら分からないとかいうのは当たり前。座っていて机の上にある物さえぼやけます。

 

それなのにメガネを中2か中3くらいから変えておらず、( ´ ▽ ` ) 当然度は全く合わなくて、家では非常に目が疲れる生活を送っておりました。

 

色んなメガネ見てたらだんだんテンションあがってきて、

「今日はこれを買うために家を出てきたんだ!!」と。

結局まっっったく予定のなかったものを買うことに。

 

 

すっごい迷って1時間くらいかけて迷って迷った末にこれだ!と思うフレームを決め、レンズの度を決めるために視力検査をしてもらう。

 

外用か?家用か?でもオススメの度数って変わるんですね。見え方を確認して度数も迷ってこれまた迷った末にようやく全てを決め終えました。

 

 

「はあ~幸せだちょっと奮発したけど素敵な買い物だ!これをつけてどうやって過ごそうかな~♪」

とそれはそれはもううきうきしながら担当してくれた方の説明を待っていますと、

 

 

 

「レンズは通常こちらになるんですが(実物を見せながら)、これだと相手から見える目が小さく見えたり、自分側からだとものが少し歪んで見えたりします。」

「レンズを薄くするごとにそういうのはなくなっていくんですけど、かわりにプラス料金を頂く形になりまして、どうなさいますか?」

 

 

 

 

あたくしひねくれているので、ここでちょっと待てよと。

 

商品を売る側として、最低限の品質を提供するのはルールじゃないかい?

普段売られている食べ物や本や小物などが0、もしくはプラスだとしたら、それはマイナスの商品を売っていないかい?

 

食べ物に故意に髪の毛を混入させて、置物に少しヒビを入れて、商品の改善をするのではなく、髪の毛をとって欲しければヒビがないのを買いたければもう少し高価なものを買え、と消費者に押し付けてるようなもんじゃない?

欠陥があるのに気づいていながらも見てないフリをしているようなもんじゃない?

 

それはないだろ!!!!

 

 

そのとき持ち合わせのお金がプラス料金払えるほどなくて、カードもなんとなく怖くて使えないので(お子ちゃま)別にいいやと思って普通ので買いました。

 

けど今までほんとにるんるんしてたのが、その言葉を聞いた途端にさっっっと。

それはもうものすごい速さでさっっ....と引いていくのが分かりました。

 

 

それからそのメガネをつけて自転車でちょっと出かける用事があったのですが、

メガネ越しからの人やものとの遠近感が分からないんです。歪んで見える。

あたしの家の周りは坂道が多いので、その状態のまま下るのとかすっごく怖かったです。

 

そのとき雨が降っていたので、そのせいで見にくいのかなと思ってたんですが、家帰っても歪んで見えるじゃないの!!

そういえばレンズの説明の時にそんなこと言ってたわ.......とだんだん思い出しました。

 

これがネジが緩んでてガタガタするとかだったらまあ自分でやるかお店でやって貰えばいい話だけど、レンズはさ、メガネの命じゃん。歪んで見えるとか事故に繋がりかねないじゃん。

 

たしかに目も小さく見えるようになります。

たまにはコンタクトじゃなくてこれ付けて出かけようと思ってたのにこんなんじゃやだよ....。

 

 

お金を払いたくないとかそういうんじゃなく、普通にこれが通常のものとして売られてるのはどうなのかな。

そこは厚さは変えなくてもいいとして、見え方ぐらいは改善すべきなんじゃないのかな。

 

 

 

家電とかもちゃんと作ればほんとは一生もつのに、わざと細工をして10年で壊れるようにして、消費者に買わせるとかいう話も聞いたことがあります。

 

ねえほんとにそれでいいの?

いかに売り上げを伸ばすかを重視してるだけじゃ見失うものがあるんじゃない?

せめて最低限の品質は守ろうよ!!!

 

 

 

そういう生産者の意図に惑わされないで生きたいものです~。

 

 

 

歩む歩幅は、人それぞれ

 

例えば音楽でラップが好きな人、KPOPが好きな人、食べ物でお肉が好きな人、魚が好きな人、ベジタリアンの人、

 

好みの話だけでなく、世の中には色んな種類の人たちがいます。

何から何まで同じ人はいないのですから、それぞれで違いがあるのは当然。それが良い悪いということではないですよね。

 

 

 

そういう話の延長で、私はこの世には、

「1歩を大きく強く踏み出せる人」

「1歩を踏み出すにも時間がかかり、ゆっくり慎重に進んでいく人」

 

がいると思います。

これだと後者の方が悪く聞こえるかもしれないんですが、そういうことではなく、その人という人間の在り方のことです。

 

ちなみに私は、圧倒的に後者の人間です。

 

 

 

 

 

 

まず、1歩を大きく強く踏み出せる人がいます。

 

 

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はいタイヤ引き。

 

この重り、常にあるわけではありません。

時によってそれは失敗だったり恥だったり、そういうことがあることで生まれる重りです。

 

後ろの重りが重ければ重いほど前へ引っ張る力が必要になりますよね。ずっと引っ張り続けるのはしんどいです。

 

なので1歩を大きく強く踏み出せる人は、

重りを繋いでいるロープを「切る」(気にしない)ということをします。そのためのナイフを持っています。

または

後ろに引っ張られている力よりもさらに強い力を出して前に進もうとします(失敗を糧にする)。

 

 

 

 

あら?これ普通じゃないの?

 

と思います?

 

 

 

 

 

実は、ある人にとってはこれは普通のことではないんです。

 

これが、すごくすごく大変な人がいるんです。

私は、すごくすごく大変な人でした。

 

 

 

 

そもそも後ろについている重り、これは確かに出来事によっても大きさが変化するのですが、常に自分の後ろにくっついています。いつ何時でも。なくなることはありません。

 

なので常に力を入れて進もうとしなければ前には行けません。

 

そしてその重さの体感は

 

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常にこう。

重くなることはあっても軽くなることはないんですね。

それを振り切るだけの力はまだ備わってないので、進もうとしても進めません。

(その重さの大きな原因は、自分を責めること、〜しなければと思うこと、周りが望む自分でいようとすること、など、自分自身との向き合い方だと私は思います)

 

 

重たくて重たくて今すぐにでもなくしたいのに、その方法が分かりません。

周りから見たら、切ればいいのに、と思うかもしれませんが、切る、という概念すらもないんです。

2本足で立つほうが楽なことを知らない段階の猿のように、その方が楽、ということが分からないのです。

 

ロープをほどこうとしても、色々いじることでさらにきつく締まってしまう。

 

今、この重りが後ろにあって取れないということ、そのことだけで頭がいっぱいになって、どうしようもなくて、

結局、1トンを抱えたまま進もうとするしかない。

 

その重さは消えるどころか増すばかりなので、どんどんどんどん進めなくなっていきます。

 

 

また皮肉ですが、こういう人にナイフを差し出したとしても、その人は何もしないでしょう。

そうか、これを使えばロープは切れるみたいだ。それは分かる。分かるんだけども、使い方が分からないからです。

だって切るという概念がないんですから。

 

むしろこれを使えと言われれば言われるほど、使い方が分からない自分がダメなんだと思い、その言葉がまた重りとなって、自分の後ろにくっついてきます。

 

 

 

 

 

 

何度も言いますが、これは〇〇が好き、〇〇が嫌い、という、他人とは訳もなく違うということの延長の話なので、良い悪いではありません。分かる人もいれば、分からない人もいると思います。それもそれでいいんです。

 

 

 

 

私は確実に後者の人間だったので、そちらにフォーカスして話しますが、

 

こういう人は一生重りが取れず、進めないのか?

 

 

 

 

 

 

 

そんなことは絶対ありません。

だって今私が進めてるんですから。

 

 

 

こういう人は、まずどうやってナイフを使うか知る必要があります。

そのためにはナイフが生まれた歴史を知らなければ使えない人がいるかもしれない。

ほかのものを何回か切って試して、それからじゃないと使えないかもしれない。

 

どれも元々ナイフを持っている(いつのまにかナイフだけの話になっていましたが、重りを外す、ということを分かりやすく話しています)人から見たら、すごく道のりはゆっくりでしょう。

 

しかし、ナイフの使い方を知れただけでも、その人にとってはほんとにほんとに大きな1歩なのです。

 

だってロープを切る、という概念すらなかったのですから。

猿が2足歩行になる瞬間です。

 

ただ、そこに行き着くまでに多くの時間を要するだけなんです。

「そういう人」であるだけなんです。

 

 

 

 

 

 

そういう自分を認めてあげたから、私は少しずつ重りを外すことができています。

別に進もうとしなくたっていい。進めなくていい。

 

そう思うことが、実は重りを軽くする大きな1歩となります。

 

 

 

 

 

 

 

ナイフを元々持っている人、ロープの外し方を知っている人、重さをバネにそれ以上の力を出せる人は、こういう人がいるんだ、とちょっとだけ認識していただけるだけでも、嬉しいです☺︎

 

 

やめることは始めること

 

色んなことに気がついて、自分の根底がひっくり返るくらいの変化がいくつもあって、子供のように泣きじゃくる2019年初めの月。

 

投稿するときにはもう2月になってた。はやいな~。

 

 

 

そんな毎日で気がついたことの1つ。

 

始めることと同じくらい大切なことは、

「やめること」

 

私は、自分を責めたり否定すること、食事の制限をかけること、定期的な筋トレをしようとすること、食べるときに太る太らないを考えることをやめました。

 

今までは、太っている自分でいることが絶対に許せなかった。太っている自分は自分じゃないと思っていたんです。本気で。

 

鏡を見て、

うわ~自分太ったなあ~。こんなんだったら私じゃない。やだやだやだやだ。筋トレだお菓子断ちだ!!

と思う。

 

あとは、私たぶん普通の人より食べる量多いと思うのですが、(どれくらい多いって昨日は普通にお昼ご飯食べて、まだお腹空いてたので間食でファミレスのポテトとミニパフェ食べて、それでもまだお腹空いてたのでそのあと18時くらいにパスタとピザとサラダを1人で完食しました)

 

 

前はそういう自分にブレーキかけていました。

 

食べたいけどお腹空いてるけどこれ食べたら太るかな、ダメだろうな、やめといたほうがいいよな、でも食べたいし、あああどうしよう。

 

そうやってずっとグルグル考えてたんですけど、もうやめた!!!疲れたし!!

食べたいものは食べるしお菓子だっていっぱい食べる(特にチョコ☺︎)

 

 

 

自分を認める、ということを学んだから、

「太ってる自分も自分じゃん」

「痩せてたって太ってたって自分は自分じゃん」

と思う。それが今までの自分では考えられなかった思考だとしても。無理にでも。だって本来はそれが理にかなっていることだから。

 

食べ過ぎてお腹がでていたって、引っ込めて無理に細い自分をつくるのではなく、お腹がでてる自分を自分だと思う、いくら食べてもまだ食べたい!これ美味しそう!と思ったら、いいよ~好きなだけいっぱい食べな~と自分をとことん甘やかす。(食べたい、という欲求を抱えた自分を認める)

 

 

 

 

筋トレも、前は毎日やらなきゃと思っていた。

時間があれば2時間、厳しければ1時間、朝の胃の中に何もない時間帯でやるのが1番だから早起きして時間とる。

 

でもあるとき、そんなんいつまでやるの?死ぬまで?それは嫌じゃない?

って思いました。

 

運動はすごく好きだけど、やりたい!!って思ったときだけでいいじゃない。その分本読んだり、何をするでもなくただその時の自分の気持ちをノートに書き出したり、そういう好きなことすればいいじゃない。

 

 

 

 

色んなことを「やめた」んです。

でもそれは、「始める」ことでもあるんです。

 

正直、好きなだけ食べたり、運動しなかったりすることはすごく怖い。

今までの自分とは違うから。それが私にとっては当たり前ではないから。

 

でも無理に細い自分でいようとしなくたっていいはずなんです。自分から生まれる感情を素直に受け入れるほうが大事だと思うんです。

 

 

 

 

前より生活が楽です。色んな自分の中のルールがないんですから。

あれやらなきゃこれやらなきゃがない世界に足を踏み入れてしまいました。

 

 

 

 

とっっっっっても楽です☺︎

 

 

 

ピアスホールからの教訓

 

 

 

私、

ピアス開けてます。

 

 

 

なんでもないことを何かあるかのように言ってみました特に何もないです。

 

 

 

 

 

ピアス、可愛いですよね~耳にちょっとポイントがあるだけですごくオシャレに見える。

 

私には5つ上のお姉ちゃんがいて、私が中学生のときからピアス開けてる存在が身近にいたので、私もずっっっっと開けたい!って思ってました。

 

ほんとは高校入るときに開ける予定だったんですが、受験に落ちて校則的に無理な学校に行ったので高校3年間はひたすら我慢....(今思えば問題児だったから開けても良かったのに真面目だったなと感じます( ´∀`))

 

だから今度は高校卒業した次の日に開けてやりましたよね。(その日じゃなくて次の日なのはちゃんとピアススタジオ的なとこ行ったから真面目か。)

 

 

 

先ほども言いましたがお姉ちゃんがピアス開けてるのを身近でみてたので、ピアス穴がどんな感じかも知ってました。

 

ほんとに耳に穴が開いている、だけ!!って感じでそれ以外は変色したり、ボロボロになったりしてない触ると普通にぷにぷに~。

あ、こういうもんなんだな~って別になんの違和感もなくそれが普通だと思ってました。

 

 

で、私もついに念願のピアスホールゲット!!

最初の1ヶ月くらいは膿みますよね。液体でてくるし皮とかも溜まるしちょっときちゃない。それも姉の経験みてたから別に不安とかありませんでした。

 

最初はそれでいいじゃないですか最初は。

 

 

 

でも、私これ、

つい最近まで全く治らなかったんです.......。

 

 

 

 

高校卒業してすぐ開けたということは2018年3月の初めでした。そして今は年も明けて2019年。

もう10ヶ月は経ってるんです...........( ゚д゚)

 

もう膿んで膿んで仕方がない。ピアスにもすんごい液体が固まったやつつくんですよきちゃない。

皮とかボロボロになってそれ剥いちゃうから血がでる。またそれが固まるから色も形もグロテスク。痛いし。

 

あとなにより、しこりが消えないんです。ピアスの穴に沿ってできてる皮膚の内側にあるしこり。

 

あれ?お姉ちゃんにはこんなのないのにただのぷにぷになのに.....。

 

 

私金アレではないんです。どんなネックレスつけても痒くなったり赤くなったりすることなかったし。耳だけ金アレかなあ~あれ~?みたいな。

病院行ってこの得体の知れない膿に「金アレ」という確定された名前が付けられるのが嫌で病院にも行きませんでした変な意地。(結局未だに行ってません☆)

 

 

 

もうずっと待ち望んでたピアスだっただけに悲しかったですね(´༎ຶོρ༎ຶོ`)

 

なんでお姉ちゃんみたいにならないの~って。どうしてしこりあるの何で血が出てくるの~。

つけると膿むもののほうが多いから、毎回ピアスつけるのが怖くなっていきました笑

 

 

そしてある日ピアスあけてる友達にこれを相談したらやっぱり

「しこりなんてないよ~病院行きなよ~!」

と。

 

 

もう.....これは...ピアスホール塞ぐしかない.........の....か......................。

 

 

 

 

 

絶望的だった私はとにかくピアスホールなくすことだけはしたくなかったので、訪ねてみました。Google大先生に。

 

 

 

「okay Google ピアス しこり 消えない」

 

てぃろんっ

はい、こちらです。

 

 

 

先生が提示してくれた資料の中に知恵袋なるものがあったのでそれを開いてみました。

 

そしたらそこにはなんと

 

「ピアス開けて8年くらいになりますが、しこりは消えてませんよ。」

「しこりって消えないもんじゃないの?」

という内容の答えが何件も...。

 

 

 

 

えーーーーーーーーーーー( ゚д゚)

 

 

 

 

 

しこりって消えなくていいの?

あってもいいものなの?ぷにぷにじゃなくていいの??

 

私にとっては超衝撃的。

 

だってお姉ちゃんにはなかったもん!友達にもないって言われたもん!!

 

 

 

そう思ったんですが、また安心もしました。

 

「そっか、べつにあってもいいんだ。」

 

そう思ったら楽になったのです。

 

 

 

 

 

 

そしたらですね、なんと、その何日か後、

ピアス空いてるところ触ったら、

 

 

 

 

しこり、小さくなってたんです。

 

 

 

 

 

 

んなわけねえだろアホが

 

 

 

 

って思ってます?思いますよね。すみません証拠はありませんですが!!!!

これ本気です。マジです。本気と書いてマジと読みます。

今まであったしこりが小さくなってるじゃないの...!!!

 

おまけに膿むこともなくなりまして、耳たぶ超綺麗な状態を保っております。

皮もむけないし血も出ない液体もでない。

 

そんな劇的なことある?って感じですけど、自分でも信じられないくらいそんなことあったんです。

 

 

 

 

 

よく、「彼氏ずっと欲しかったんだけど、別にいらないか、と思った途端にできた」っていう話聞きませんか聞かなかったらごめんなさいねでも私は聞きます!!!

 

 

 

それと同じことかな、と思いますしこりと彼氏を一緒にするな。

 

別にいいや~って今の状況を受け入れた途端、ずっと気になってたことが解決されていく。

 

 

 

もし気になっている問題があったら、一旦立ち止まって振り返ってみる。

そして状況を確認してから、ま、いっか、とその問題を手放してみる。

 

意外とするっと、気がついたら解決してたわ笑 という風になってるかもしれません☺︎